トップページ > §1) MGBの主観的考察
<< PREVIEW





§1) MGBの主観的考察 [1]


[1] [2]

MGBが生まれた背景

 アメリカほど開放的でない英国の人々は、規律や慣習を重んじ、堅実で知的な暮らしを美徳としている。象徴的にいわれる英国人観は、古くはビクトリア時代にさかのぼり、今なお脈々と社会のなかに受け継がれている。

 ビートルズやパンクロックが生まれた地として知られる国だけれども、それらは明らかなアンチテーゼであり、英国においてはとても奇異な事実としてあることは、かの地を旅した者なら容易に理解できるはずだ。

 ロンドンの繁華街では18世紀の建造物があたりまえに使われ、ハイドパークの外周には馬を運動させるための馬道があり、パブに立ち寄れば階級制度の名残がそこかしこに見受けられるのである。

 MGBは1962年、そんな英国に生まれた。

MGBが生まれるまで

 戦後まもなく、世界各国で自動車の生産が再開された時代、オクタゴンブランドを付けたMGは、経営再建のために国営化されていたBMCの傘下にあって、戦前のノウハウをそのままにTCを送り出した。

 ラダーフレームに架装された馬車のような車体には大きなホイールウイングがあり、エンジンも旧式のXPAGが引き続いて搭載されるなど、TCは、戦後の復興にいち早く着手したものの旧態然とした容姿で、欧州他国の自動車メイカーに立ち後れていた。

 1955年。オクタゴンブランドの名誉を回復すべくBMCは、MGBの前身となるMGAを送り出した。現代的なスタイルとなったMGのオープントゥアラーは英国の内外で高い評価を得た。当時のBMCワークスチームは各地で開催されるモータースポーツにも積極的に参戦し、英国の正統な自動車魂として印象付けていた。

 当時は、伝説的に語り継がれる英国の一方の雄、ロータスが頭角を現した時代だった。バックヤードビルダーと呼ぶ、高度な技術を持ったアマチュアが走るためのクルマを作り上げ、熟成していった。コーリン・チャップマン率いるロータスは、英国の珠玉の異端児として欧米にその名を轟かせた。

 それに比較するとBMCのオクタゴンブランド、MGは、量産メイカーが市場戦略として生み出した、英国の極めて標準的なスポーツカーだったと言えよう。

MGBの誕生

 ル・マン24やセブリングの競技の経験から得たBMCワークスのノウハウは、次々に市販車へ活かされた。サスペンション構造、ブレーキ、原動機など、おおよそ自動車のすべてにおよび、MGAは究極的にツインカムヘッドを搭載したMGAツインカムを頂点に、次世代を担う英国のスポーツカー、MGBへバトンを渡した。

 BMCのBタイプエンジンは1800ccにまで拡大され、シリンダー毎の隔壁を持たないサイアミーズ型へと発展し、気化器はさらに効率化されたSU-HS4となり、高速化に備えてフロントにはロッキード製の2ポットキャリパーを持つディスクブレーキが奢られた。

 ラダーフレームをベースにしたモノコックボディの採用で運動性能を向上させたMGBは、MGAにくらべて、よりスレンダーなボディを与えられた。現代的なシルエットの中に、伝統の縦格子のフロントグリルや、特徴的に美しいクロムメッキが施されたパーツを身にまとい、それは、やがて来る世界的なモータリゼイションの大舞台への切符を授かって、鮮烈なデビューを果たしたのだった。

 世界各国のクルマ社会は、ほぼ完璧な英国車の姿をして公道を駆るMGBに熱い視線を注ぎ、惜しみない賞賛の言葉を与え、市場に迎えた。

 産業としてのスポーツカーを確固たるものにするための使命を持っていたMGBは、実に自国の英国で発売を開始する1963年よりも早く、1962年にアメリカで先行デビューをさせていたことからも、時のBMCが如何に世界市場を意識していたかが窺い知れる。

 モーガンやマーコスがバックヤードビルダーによってコツコツと手作りされていた頃に、量産車の部品やノウハウを活用し、誰にでも乗ることができる中庸を目指して生み出されたMGBは、やはり時代を代表する偉大なスポーツカーだった、と誰しもが認める所以であるにちがいない。

 1963年の日本では、日本オリンピックを翌年に控え、東海道新幹線が整備されていた昭和38年。かの本田宗一郎がチェーン駆動の「HONDA S500」を創り出し、プリンス自動車がスカイライン(S54B)でサーキットを走り、いすゞ自動車がベレットを市場に送り出していた。

 そんな時代、ときの日英自動車が僅かな台数のMGBを英国から輸入し、日本のオウナーの手に届けたという。














プライバシーポリシー
UP
<< PREVIEW
[サイトマップ]

Recommended Site